心の奥深くで、神の中で生きる人は、神聖である。その人は、永遠の法則の光を発する。純粋なもの、美しいもの、繊細なもの、そして絶対愛を、つまり自らがそうである「神による存在」を発している。
永遠の法則、純粋なもの、美しいもの、高尚なもの、繊細なもの、そして絶対愛が発するものは、神に満たされた人から出てくるものであり、それから再びその人の中に入り、その人の中で光を発する。
永遠である「神による存在」の中では、純粋な存在が生きており、永遠の「神による存在」の中で自身の実存を持っている。何故ならその存在自身が永遠の「神による存在」であり、永遠の法則、神、すなわち純粋、美、自由、高尚と繊細、無私無欲の愛であるから。純粋な存在は、万物の流れの中、神の中、「神による存在」の中にある「神による存在」である。
浄化の場にある重荷を負った魂と、肉体化されて重荷を負った魂、つまり人間は、「神による存在」として生きておらず、「神による存在」の流れの中で動いてもいない。
神の中で生きていない人は、自分自身がつくった世界の中で生きている。それは、人間の感情、思考、言葉、行動からなる世界である。その人はそれらを自分にとっての「神による存在」あるいは「自己」と呼ぶ。それは、人間の自我による小さな世界である。
この小さな世界にその人は生き、動き、そこにのみ自分の実存があると考える。
その人は、繭のようなものである小さな世界の目だけで見る。それによりまた、隣人の小さな繭の世界しか見ることがない。
その人は生命の表面のみ、つまり鏡像のみを見る。何故なら、その人は外側にのみ生きていて、自分の小さな世界でのみ動いているからである。重荷を負った感情、思考、言葉、行動によって自分で張った小さな繭の中でのみ動いている。これがその人の意識の状態である。
この小さな繭の世界の糸は壁のようなものであり、その人はその壁を見て「真理」と呼ぶ。その人は、小さな自分の世界の壁にのみ目を向けるため、同じく隣人の小さな世界の壁しか見ることができない。つまり、真理の鏡を見ているだけで、真理そのものを見据えているわけではないのである。
その人は真理について語るが、真理の鏡像のことを言っている。その人は、その内容を自分自身で入れ込み、それを使って自分自身をでっちあげ、それを信じている。何故ならその人はそれだけを見ているから。自分が見ているものだけを信じ、それを真理と言っているのである。
万物の中に、原則は一つしかない。送信と受信である。誰もが自分自身を、すなわちその人そのもの、その感情、思考、言葉、行動を送るのである。
純粋な存在は生き、純粋な永遠の法則、つまり万物の法則の中で、そしてそこから外へ活動する。
純粋でない人は、自分で生み出した小さな世界に生きている。それは、自らの不浄からなる世界であり、自身の感情や思考、言葉、行動から排出されたもので構成される世界である。この繭の世界で、その人は生き、動き、自分のあるがままに感じたり、考えたり、話したり、行動を起こしたりする。それにより自分の繭の世界が構成されている。
重荷を負った人は毛虫に喩えることができる。
その重荷を負った人、つまり毛虫は自らの小さな世界の糸を張り巡らし続ける。羽化して羽を広げ、蝶、光の存在とならなくてはならないと気づくまで。そのような存在は、神の永遠なる万物の法則、万物の原則の中に生き、動き、永遠なるものの中に永遠の実存を持つものである。その万物の原則は、確かにそこにあり、自己として自らを語るもの、すなわち純粋、繊細、高尚、美、無私無欲の愛、万物 СКАЧАТЬ