Название: 吾輩は猫である / Ваш покорный слуга кот. Книга для чтения на японском языке
Автор: Сосэки Нацумэ
Издательство: КАРО
Жанр: Классическая проза
Серия: 近現代文学
isbn: 978-5-9925-1522-0
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「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」
吾輩はその後《ご》野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、布団《ふとん》をすべり落ちて椽側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて身震《みぶる》いをした。その後《ご》二絃琴《にげんきん》の御師匠さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向《ごえこう》を受けているだろう。
近頃は外出する勇気もない。何だか世間が慵《もの》うく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの無性猫《ぶしょうねこ》となった。主人が書斎にのみ閉じ籠《こも》っているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
鼠《ねずみ》はまだ取った事がないので、一時は御三《おさん》から放逐論《ほうちくろん》さえ呈出《ていしゅつ》された事もあったが、主人は吾輩の普通一般の猫でないと云う事を知っているものだから吾輩はやはりのらくらしてこの家《や》に起臥《きが》している。この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活眼《かつがん》に対して敬服の意を表するに躊躇《ちゅうちょ》しないつもりである。御三が吾輩を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に左甚五郎《ひだりじんごろう》が出て来て、吾輩の肖像を楼門《ろうもん》の柱に刻《きざ》み、日本のスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの上に描《えが》くようになったら、彼等|鈍瞎漢《どんかつかん》は始めて自己の不明を恥《は》ずるであろう。
三
三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞《せきばく》の感はあるが、幸い人間に知己《ちき》が出来たのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人の許《もと》へ吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産|吉備団子《きびだんご》をわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己《おのれ》が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間《ま》にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合《きゅうごう》して二本足の先生と雌雄《しゆう》を決しようなどと云《い》う量見は昨今のところ毛頭《もうとう》ない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑《けいべつ》する次第ではない。ただ性情の近きところに向って一身の安きを置くは勢《いきおい》のしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄《ろう》して人を罵詈《ばり》するものに限って融通の利《き》かぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると三毛子や黒の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位《きぐらい》で彼等の思想、言行を評隲《ひょうしつ》したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般|猫児《びょうじ》の毛の生《は》えたものくらいに思って、主人が吾輩に一言《いちごん》の挨拶もなく、吉備団子《きびだんご》をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ撮《と》って送らぬ容子《ようす》だ。これも不平と云えば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然|異《こと》なるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に上《のぼ》りにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで御免|蒙《こうむ》る事に致そう。
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